初音ミクが感染対策? ウイルスとフィクションについて考える

はじめまして。萌学会のはいりと申します。

僕は地方の大学に在籍し(現3年)、普段はネットフリックスを見ながら飲酒する日々を過ごしています。どうぞよろしくお願いします。


大学からのメールで知ったのですが、「コロナウイルス対策サポーター」に初音ミクが採用されたようです。

#keepsafefor 特設サイトに掲載されたポスター>

上の画像は「初音ミク」のキャラクターデザインを担当したKEIさんの描き下ろしのポスターです。

白衣などの医療従事者のコスチュームではなく、デフォルトの衣装のミクが目を閉じて胸を手に当てたポーズをとっています。"―また、みんなの笑顔に会えるから。"というコピーから察するに、歌姫として「みんな」の前で歌えるように、パンデミックの収束を祈っているのでしょうか。KEIさんの代名詞的な淡く繊細な色使い。やさしさと儚さを感じさせるすばらしいイラストです。

しかし、なにより目につくのは彼女の着用している無意味なマスクではないでしょうか。

デフォルトの現実味のない衣装をまとったミクと、僕たちが毎日身に着けている生々しい現実味を帯びた白いマスク、この両者が同居していることにどうしても違和感を覚えてしまいます。

イラストのレイヤーの上に、実写の切り抜きをべったりとコラージュしたようなちぐはぐさ。やはり虚構を生きる彼女と、感染症という僕たちと密着した紛れもない現実 とは相容れないのでしょうか。

けれども僕は、ミクの虚構性こそがコロナウイルスの虚構面を引き受ける存在として必要なのだと思うのです。


初音ミクの虚構性

「統一防火ポスター」というものをご存知でしょうか。

一般社団法人 日本損害保険協会が制作する、防火を促すポスターです。女性タレントを起用することで特徴的です[2]。

公民館や学校、市役所など、どこかで見かけたことがあるのでは。


<2020年度の全国統一防火ポスター。モデルは女優の白石 聖さん。>

「感染症の拡大はある種の人災であり、人々の意識によって防止できる」

とするならば、感染予防ポスターは防火ポスターと同質のものと考えられます。

馴染み深いタレントとして起用されてきた女優たちのように、初音ミクもまた若者向けのアイコンとして選ばれたように思えます。ポスターが公開されている特設サイトはインスタグラムのように写真を投稿できるSNSのようなつくりをしていて、ネットカルチャーと関連の深い彼女が採用されるのも自然な流れでしょう。

それでもやはり注意したいのは、身体が欠如したキャラクターが、感染症という身体の危機に関して呼びかけている点です。

身体を持たないミクと僕たちでは、医療に関する問題を共有することはできません。

防火ポスターに映る女優は、僕たちと同じように火事に巻き込まれれば丸焦げになってしまう(だからこそ人々に訴えかけている)、それに対してミクがウイルスに感染することはありえない。

これは彼女が現実世界に存在しないから、という意味ではありません。

彼女は現実世界はおろか虚構の世界にすらも存在するのかわからない、いわゆる「三次元」と「二次元」の差異、現実/虚構というギャップを超えた虚構性をもつのです。

ミクの超越的な虚構性とはどういうことか。

「初音ミク」はゲームやまんが・アニメのキャラクターではありません。その本質はヤマハが開発した歌声合成ソフトウェアです。

彼女は公式による物語を持たず、それゆえにユーザーが自由に好きな曲を歌わせ、曲から派生した物語がいくつも生まれました[2]。

公式の物語という、具体的な世界を持たないからこそ多様な二次創作に恵まれたわけですが、それはミクが他のフィクションのキャラクターとは異なったレイヤーに存在するからです。

他のキャラクターが原作という強力な物語に属するのに対して、ミクはそのような本物の物語をもちません。

キャラクターには本来属する世界があります。

「異世界オルガ」シリーズの面白さは、『機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ』の登場人物のオルガが、『異世界スマホ』などの別作品の世界に迷いこんでしまうギャップ、違和感でしょう。本来属する世界があるからこそ、キャラクターが他作品という異世界に混入すると、特別感が生まれる。『スーパーロボット大戦』のようなクロスオーバーのアツさは、異なる虚構世界に帰属するキャラクターたちの、世界観を超えたつながりからくるのではないでしょうか。

そんなふつうのキャラクターたちと比較して、本来属する世界を持たない、どこか魂のぬけたキャラクターであるミクは、多様な世界観の多様な世界、多様な物語の中にそれぞれ同じくらいの強度をもって存在しています(すべての世界観に遍在するから、そもそも世界観を飛び越えることができない)。そしてそれらの多様な世界は(減速しつつあるけれど)これからも増えていく。

それはもはや、どこにでもいるようで、(存在の重心が限りなく分散され、ただひとつの座標あるいは存在を許す平面を持たないという意味で)どこにもいないのといえるのではないでしょうか。

オルガの生きる本来の虚構世界では、彼がウイルスに感染する可能性が残されています。

けれども、初音ミクがウイルスに感染する世界があったとしても、それは「原作」や「公式」のような特権的な重み付けがないために、彼女が生きるほかの無数の世界によって希釈されてしまう。

ふつうのキャラクターとは異なり、彼女が存在する世界は無数に分散し、もはや彼女がどこにいるのかわからないという意味で、虚構世界にすら存在するのか怪しいヴァーチャルなキャラクターだから、初音ミクは特別な虚構性を放つのです。


ウイルスの虚構性

 コロナウイルスは現実です。

新型感染症によって社会の情勢は大きく変化しました。2021年2月時点で、日本では約7000人を死にたらしめ、感染の恐れから人々の移動は制限され、出勤や登校はオンラインによる在宅ワークにシフトし、観光業界は経済的な打撃をうけました。

街に出れば誰もがマスクを着用し、「ソーシャルディスタンス」と呼ばれる、一定の間隔をあけて座ったり並んでいます。レストランやスーパーの入り口で消毒液を手に塗り広げながら、顔認証システムやドミネーターによく似た検温器に額をかざす瞬間は、この一年間で染みついたリアルな生活ルーチンです。

 感染症の脅威は現実につよく影響を及ぼしていますが、その反面、ウイルスは虚構的な性質も宿しているように思います。

先ほども述べたように、ウイルスの感染・発症という現象は現実みをおびていますが、それを引き起こす物理的な実体はとても微小です。

ウイルス自体は数十から数百ナノメートルのサイズなため、その姿を観察するには学校の理科室などにある光学顕微鏡よりも分解能の高い大掛かりな装置、電子顕微鏡を用いなければなりません。

医療機関で行われているPCR検査も、ウイルスがもつ核酸を生化学的な反応プロセスによって累乗的に増加させて検出します。

ウイルスの身体が微小すぎるために、僕たちが認知できるウイルスの姿は、症状という外的な現れか、あるいは電子顕微鏡やPCR検査などの分析機器によって引き延ばされた像なのです。

目に見えない存在について対応しなくてはならないとき、僕たちは想像力や知識によってそれを補います。ウイルスの殻から伸びる突起のとげとげしさを「コロナ(王冠)」と言語によって形容したり、研究機関の公開したウイルスの像を、あたかもゲームやアニメの「キービジュアル」のようにとらえたり、デフォルメされたイラストやCGがさまなざまメディアで用いられていいます。

このように現実として感知できないものに対する想像力によって、その身体を補完されるウイルスは、物理的には現実に存在していながら、しかしそれを認識する僕たちには虚構としての顔を覗かせるのです。

 そしてウイルスはミクロならぬ、ナノな身体をもつだけでなく、その所在が定まっていないという特徴もあります。

中国の武漢で発見されたと思ったら、瞬く間に世界中に拡散したウイルスが今どこにいるのか、だれも答えることはできません。

ウイルスは宿主の体内で指数関数的に増加し、ほかの個体へとその感染規模を拡大させていきます。世界的な規模に拡散していますが、例えば空気や水のように世界中に広く遍在しているかと言えば、そうでもありません。ウイルスは感染によって増殖すると同時に、免疫によって駆逐されたり、発症しても回復することによって、あるいは宿主の死によって減少もしていきます。

世界中にばらまかれ、増殖と死滅によって点滅していくウイルスは、存在していることはわかるけれど、この世界のどこにいるのかわかりません。

自治体ごとの感染者数を示すマップによってかろうじて、ウイルスの現れ、痕跡をたどることしかできないのです。

富士山やスカイツリーといったランドマークは、この世界の特定の座標に、ただひとつだけ存在し、だからこそリアリスティックな存在感を放っています。

静的なモノでなくても、それこそ僕たち人間も移動はできるけど、ドッペルゲンガーのように分裂できず、この現実にただ一つの存在として定着しています。

それと比較すると、現実のどこどれほどあるのか、

その所在を掴めないという意味でも、ウイルスの存在は現実味を欠いており、虚構的と言えるのではないでしょうか。

これらを踏まえると「コロナはただの風邪、茶番」とする陰謀論的な活動も、自粛生活への反発というだけでなく、ウイルスの虚構性(目に見えず、どこにあるかもわからない)によって引き起こされたムーヴメントのように思えてくるのです。

さすがに「コロナはただの風邪」とまでもいかなくとも、僕らのような若者にほんのりと漂っている、「どうせ自分は罹らない。体力があるから発症しない。」といった無根拠な侮りもまた、ウイルスの現実感の無さ=虚構性と関係しているように思うのです。


メタ・虚構として

ここまで初音ミクとウイルスとがその虚構性について共通していることを確認しました。

ここで「コロナウイルス対策サポーター」の話に戻りますと、

実際に初音ミクを感染症対策のシンボルに任命した機関や人物が、どう意図していたかは定かではありません(もしかしたら版権的な問題やら何かの利権が絡んでいるのかもしれません)が、

コロナウイルスはその身体の微小さと所在のつかめなさに由来する現実感のなさをはらんでおり、そんなウイルスの虚構面に対応できるのは虚構性のシンボルたる初音ミクしかいないのだと、どうしても僕はそう思ってしまうのです。

虚構性自体がアイデンティティですらあるミクが、マスクをつけて感染対策を呼びかけるとき、もはや「コロナウイルスは現実か/虚構か」という議論は意味をなさない。

そこには、たとえコロナウイルスが虚構だとしても感染対策をする という強いメッセージが込められているのです。

ウイルスの虚構面にたいして、虚構をもって対応する というのは一見、ごくふつうの流れのように見えますが、これは案外挑戦的な試みではないでしょうか。

「コロナはただの風邪」のような社会を動かす虚構、陰謀論に対する一般的な対応はそれを否定することです。主要なメディアが陰謀論について報じるとき、事実に基づいてそれを否定します。

現実の出来事の裏に起きている壮大なサーガを作り上げる陰謀論は、まぎれもない虚構ですが、しかし「現実」を振りかざしてそれを打ち崩すことは、ある種の分断を起こしてしまうような気がするのです。

現実から虚構を切り捨てる行為は、現実からノイズを取り除き、ただひとつの事実を共有するのに役立ちます。

しかしそれは、コロナウイルスの虚構面のような、現実のもつ虚構性を無視しているだけではないのか。

あるいは、現実/虚構という衝突[3]を起こしているだけではないのか。

ひるがえって、マスクをつけた初音ミクはコロナウイルスの虚構面を引き受けています。

ウイルスの虚構性、そこに虚構を付随させてしまう僕たちの性質を否定するのではなく、虚構だとしても共に「笑顔で会えるように」感染対策を周知し、事態の収束を願う。

そこには、中二病の少年にたいして、彼の妄想を認識しながら、しかしそれを否定せずにうまく話をあわせて、「例えば、魔法陣の作成には高度な数学が必要」だとか、「お前は勇者の生まれ変わりなのだから剣道を習え」とかコミュニケートし、勉学や部活にうまくのせる教育者のような超越性があるのです。

虚構と衝突するのではなく包摂することでそれに対抗する、メタ・虚構ともいえるシステムとしての初音ミクは、現実と虚構をゆるやかに連帯させたまま現実の問題の対策へと向かわせる求道者なのかもしれません。



※脚注

[1]:"1979年度から、ポスターをより親しみやすいものにするため、タレントの起用を始めた。過去の防火ポスターモデルには、「松田聖子さん(1981年度)」「中山美穂さん(1986年度)」「柴咲コウさん(2001年度)」「長澤まさみさん(2004年度)」「戸田恵梨香さん(2007年度)」等を起用している。"

参考:2020年度全国統一防火ポスターに女優の白石聖さんを起用


[2]:「悪の娘」シリーズや「初音ミクの消失」などのストーリー性のある楽曲。『千本桜』や『こちら、幸福安心委員会です。』などヒット曲は、ことごとくノベライズされました。

これらのVOCALOIDを土壌とした楽曲に物語を付与する潮流は、『カゲロウプロジェクト』やハニーワークスなどのVOCALOIDから独立した作品群へと受け継がれていきました。

参考:ニコニコ大百科小説化したVOCALOIDオリジナル曲の一覧


[3]:以下のツイートのように、陰謀論者はこの現実/虚構の対立を

捏造された現実/一部の「目覚めた」人だけが知る真実 というふうに認識しているように思えます。

”緊急放送システムがトレンド上がってて、何それ?って思う方達へ。1日で理解することは厳しいと思うので、気にしなくて大丈夫だと思います。結局、事が起これば分かることなので。ただ、言えることは、これから数日で世界は劇的にいい方向に変わるってこと。なので、安心して頂ければと思います。”

参考:陰謀論の記録 - 水城正太郎の道楽生活

日本萌学会ジャーナルブログ「萌え人」

日本萌学会を中心に結成されたオタク集団、「日本萌学会」の公式ブログです。 早く滅ぼしましょう。

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