寅年は終わったけど『とらドラ!』は永遠だから『とらドラ!』の話をするし『ゴールデンタイム』の話もする
先日私にとって25回目になる12月31日が終わり、同じく25回目の1月1日を迎えたところです。
だというのに、それになんの余韻もなく正月は過ぎ去って、正しくない月(ただしくないがつ)が無許可でやってきて関所をたたき破らんとしています。
このような憂慮すべき事態の最中、巷では、次のような風説が蔓延っています。
今年は2023年である。
また、次のような噂も、まことしやかに膾炙されているとも聞きます。
今年は令和5年である。
これらはいずれも誤りです。
正しくはこうです。
今年は「とらドラ!2年」である。
みなさんの反論したくなる気持ちもわかります。しかしとりあえずそこにお掛けになって、私の説明を聞いてくださればおわかりいただけるはずです。
私は昨年11月、日本萌学会(団体)の構成員を筆頭とする数人の御宅(おんたく)らから激しく勧められて『とらドラ!』(アニメ)を初めて視聴しました。
そこからの『とらドラ!』を見ているとき以外の記憶ははっきりしません。
いつしか目蓋の裏には両眼ガン開き櫛枝実乃梨(りょうまなこがんびらきくしえだ・みのり)が焼き付いてしまっていて目を閉じるといつでも会うことができます。
そして私は取り憑かれたように夜な夜な「くしえだー、くしえだー」とつぶやく妖怪と成り果ててしまったのです。
いきおい、その翌月には、原作小説およびスピンオフのすべてを電子書籍で購入し、読破するに至りました。
私は気付いたのです。
これまでの世界はすべてかりそめだったこと。
読み終えて今、この瞬間からあたらしい、真実の世界が始まっていくこと。
だから、去年は「とらドラ!元年」です。
ちょうど寅年であったことからも、この説は信用に足るといえるでしょう。
そうすると、今年は「とらドラ!2年」ということになります。
おわかりいただけましたよね。
本題に入りましょう。
今回のテーマの半分は『とらドラ!』の話、そしてもう半分は『ゴールデンタイム』の話。
昨年末『とらドラ!』を視聴し終えた私はそのカタルシスの余韻も冷めないうちに、預言者dアニメストアから示された神託(おすすめ)に従って、同じ竹宮ゆゆこ神原作の『ゴールデンタイム』を履修するに至りました。
したがって今年は「ゴールデンタイム2年」でもあるわけなのですが、それは置いといて。
「同じ作者が書くラブコメなんだから、同じような物語になっていくのかな…?」そんな保守的な期待感と、しかし二番煎じであってほしくはないというアンビバレンスな心境で視聴を始めたところ、
そこには『とらドラ!』とは全くもって対照的な視聴体験があったのです。
ことわっておきますが、対照的、というのは、どっちが神作で、どっちが凡作とか、そういうことではありません(私に言わせればどっちも竹ゆゆ神の作品なのだから神作です)。それに、私はアニメを評論できるほど詳しくありません、アニメとしての出来とか、映像、表現技法とか、細部の評価には触れないことにします。
あくまで、これらを続けて視聴した、いち視聴者の情動について、みなさんに聞いていただきたいのです。
以下、ネタバレを含みます。
結構前の作品ではありますが、一応、未履修の方はお気をつけて。
あともうひとつ。
私は『とらドラ!』では櫛枝実乃梨に惚れ、
『ゴールデンタイム』ではリンダ(林田奈々)に惚れました(医者からは重度の「負けヒロインしか愛せない病」だと言われております。)。
どちらも最終的には各キャラへの評価はだいぶ変わったのですが、視聴中の感想については、彼女らにどっぷり入れ込んだ色眼鏡のもと出てきたものであるため、ちょっと他のキャラに関してはトゲのある表現をするかもしれません。そのことはご勘弁ください。
ではまいります。
『とらドラ!』
思春期の高校生たちの学校生活の中で、それぞれに揺れ動く心が描かれています。主人公やヒロインだけでなく、初めは安定感バツグンに見えたキャラさえも、弱さも強さも持ち合わせていたことに気付かされていきます。
そんな、交錯し、時に衝突する彼らを見ていた私の正直な感想はこうでした。
櫛枝にツラい役ばかりやらせるのは、もうやめてくれ!
中盤から終盤、物語が加速する盤面では、櫛枝が、いつも竜児や大河や亜美たちのせいで、損ばかり食わされているように、私には見えていました。
終盤まで見てようやくそれが私自身のエゴだったことを思い知らされるのですが、それはともかく…
作中で起こるケンカや事故を見ては、
見るのがつらい。日常回を一生やって欲しい。
「ずっとこのまま」なんて、きっと竜児たちにとってはある意味残酷な生殺しであることをわかってはいつつ、そう思わざるを得ませんでした。
それでも彼らはうねりの中、ぶつかり、交わり続けます。
それは、大海原の嵐の中を進む大航海のようでした。波風は船をその場に留めてはくれないのです。それならば進まなければなりません。きっと見果てぬ新大陸を夢見て。
『ゴールデンタイム』
一方、こちらは大学生の話ですが、登場人物らの心情の移ろいが描かれている点において違いはありません。むしろ主人公・多田万里は、『とらドラ!』の高校生たち以上に情緒不安定です。(彼の境遇を考えると仕方ないとはいえ…)
ところが、この作品を見た私が抱いた感想は『とらドラ!』のそれとは大きく違うものでした。
事故とケンカは『ゴールデンタイム』の華!
ヒリつくようなシーンが訪れるといちいち「お!きたきた!」とか騒いでしまいました。ただ単にデカい声とか修羅場とかにワクワクしたのではありません。本当ですよ?
語弊を恐れずに言えば、
『ゴールデンタイム』の日常回って、ちょっとキツイ
んですよ。
アニメの演出が合わなかったのかなと思って原作も読んだのですが、結局、同じような感想を抱きました。
そして、最後まで視聴したところで、これはおそらくある程度意図されたものだったのではないか?と考えるに至りました。
日常回で描かれたのは、多田万里(偽物)と香子が送りたい「幸せな日常」にほかなりません。
それは多分に作為的で、第三者の目線からすれば、痛々しい「ごっこ遊び」にも見えてしまうものでした。
だからこそ、そのおままごとがぶち壊される事故やケンカの描写はあまりにも、黄金のごとく、輝いて見えました。
しかしすぐに金色の夢は覚め、彼らはまた彼らの望む日常へと戻ろうとします。心は同じところをぐるぐる回って本物にはまっすぐ辿り着けないのです。
いわば、『ゴールデンタイム』の日常回は、砂漠に飢えと渇きをもたらす灼熱の南風でした。砂漠の道を一刻も早く駆け抜けたく彷徨う。時には黄色い砂嵐の中に黄金の幻覚を見ながら、物語の加速を望み、ひたすら黄金郷を探し求めるシルクロードの追体験が、そこにはありました。
すなわち、私にとっては、
『とらドラ!』は大海原の航海日誌。
『ゴールデンタイム』は砂漠の放浪記。
そういうわけです。
芯食ってるのかなんだかよくわからない喩えですね。正月ボケです。許しておくんなまし。
そうして今回いろいろ考えて気付いたんですが、私が『ゴールデンタイム』に対して抱いた感想、わりと『とらドラ!』の作中で亜美が言ってたことと重なっていますね。
「……倒錯だよねえ。父親でもないのに、先に老いて先に死ぬわけでもないのに、『絶対手を出さない』って決めてる女を、高須くんは大事に大事にしてるの。で、心にはちゃーんと本妻がいて、三人はまるでおままごとみたいに自分の役割をわかってて、パパ役、ママ役、子供役、って」-『とらドラ!』第7巻より
私にとっては、甘塩っぱい海風の中でさざなみに揺られ心地よかった日常回も、あーみん目線では「倒錯的なおままごと」であり、耐え難い船酔いをもたらす磯臭い荒波だったのでしょうか。
思えば彼女は、最も意図的に『とらドラ!』の物語を加速させたキャラクターのひとりです。
今、このように語ってみて初めて、川嶋亜美、彼女がどうしてそのような役回りを演じたのか、その意図をつかむことができたように感じます。
…どうやらまだまだ、『とらドラ!』には私の見逃した側面がありそうです。新たなる発見を携えて、n周目視聴行くしかないねぇ!
なんたって私の「とらドラ!2年」(「ゴールデンタイム2年」)は、始まったばかりですから。
それから、そこの「見たことない」「見たけど忘れた」っていうあなたも、ぜひdアニか何かで見てください。あなたの「とらドラ!元年」「ゴールデンタイム元年」をやっていきましょう。
両眼ガン開き櫛枝はあなたを見ています。
…それではみなさま、よいお正しくない月(おただしくないがつ)を!
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