筒井康隆「虚人たち」感想
緩慢に上げていた手信号が災いした。意識外からのヘッドライトが私を照らした。
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その日私は2月の風花舞う宵闇の中を自転車で駆け抜けていた。
早めの風呂に入った日に限って冷えるような用事が生まれるというのはマーフィーの法則に則っては極めて自然な出来事であって、それ自体はなんら書き記されるべき、特筆性のあるできごとではない。日常性のなかで、小説でなくとも、随筆でも、叙事詩でも、行間のなかに押し込まれて消えていく定めにある取るに足らないことである。
果たして何があってわざわざ自分から湯冷めを拾得しにいこうなどとマゾヒスティックな真似に走っているかというのもまた取るに足らないものであって、というふうに再三再四もったいぶり続けているうちに書かなければいけない理由がどんどん高まっていくところ、法外に期待が膨れ上がってしまう前に開陳してしまうなら。我が家のキッチンドランカーが、夕飯の支度の最中に、勤め先の冷蔵庫に貰い物を忘れて来たことに気づいたが、調理兼晩酌が始まってしまっていたがために、現実的な交通手段のうち徒歩以外を合法的に使えなくなってしまったという経緯にすぎない。ここらはほどほどに田舎、すなわち車社会なので公共交通機関網は恢恢疎にして漏らしまくっている。
早い話がお遣いである。「そしてそんなことはどうでもいい」わざと声にだしてつぶやきながら立ち漕ぎの足を固定し、重心移動のみをもって緩やかなスラロームを切りつけていく。50年前にはあぜ道であっただろうコンクリート打ちとアスファルトの縞模様だ。そしてそんなことはどうでもいいのだ。偏執狂的に理屈っぽい「虚人たち」の主人公でもあるまいに――――――
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マスクで覆われていない部分を乾いた北風に殴られながら私は思い返した、今日ふらっと寄った町一番の大書店が、年度末の移転に向けて3階から上を全て閉鎖していたこと、そして普段私は2階で小説と棋書を3階でポモ某やを4階で計算機科学5階で語学6階で漫画とちまちまと駆け上って眺めるのが楽しみであったこと、エスカレーターと階段に通行止めのテープが貼られていたこと、ゆえにくすぶった不完全燃焼が購買欲と化し読もう読もうと思って結局読んだことのない文庫本の数冊を手にとったこと、そういえばここは珍しく少額の1回払いであってもクレカ決済であれば丁寧にサインを要求してくるところであること、そしてここが移転しもう一つが閉店することで来春以降町の駅側から一切の本屋が消え失せること。
しようもない寂寞だな、と感想する。チープな感傷と自嘲する。結局基底現実の存在を強く確信しそこに依拠している現実人である私のちいいいいいっぽけな悲哀など基本的に描くに値しないもので、特段身内で誰かがさらわれたであるとか、それが複数人で同時多発的であるとか、出来事も世界観も周囲の人物の言動も全てが支離滅裂で、挙げ句の果てに自ら遍在することで物語を破局に持っていこうと行動するようなそんな小説にするにも奇抜がすぎるような男の話でなければこのように小説のフォーマットに乗せるにはどだい味不足だ。
まあそのような面白い話であれば別段小説という型でなくとも、例えば小説に対するメタ的な嘲笑に基づくめちゃくちゃな文体でもいいわけだ。タイトルにあるタイトルを見てわからなくても「きっかり1ページが2分で主人公が寝たり気絶したりすると空白のページが続くような」というのは聞いたことがあるかもしれないが、まあとにかくそういうエクスペリメンタルなスクリューフォーマットでもいいわけだ。
晦渋難解、冗長迂遠、まったくもってまわりくどくスキゾ的な思索、しかもそれらが紙面をビッシリと覆い隠す読者バイバイな構造だって問題ない。事実、その実験性から文学史に残っている事実以前に娯楽小説としても異常に出来が良い。誰にでも勧められるというわけではないが読むか読まないか尻込みしているようなら背中を押すだろう。
靴を脱ぐ。
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社屋の冷蔵庫の中に、ブツは伝えられたとおりあった。袋の中に何が入っているか私はこの時点では全く知らないし、知る必要もない。ただ一目散に自転車のカゴに突っ込んで来た道を引き返しにかかる。とても新品とはいえないフレームが僅かに軋んで、その音は代わりに嘶いてくれたようであった。
ここまでも、そしてここからも、こんな文体で書かなければいけないことは何度も言うように本当に何もない。「(任意の挨拶)日本萌学会の(ハンドルネーム)です」という定型句を犠牲にしてまで突っ込んだ冒頭の描写は、単にクライマックスっぽいシーンを頭においとけば小説っぽいだろうという安易な発想によって切り取られた光景であり、その後手信号のおかげで特に危なげもなく帰宅している。手信号はいい。
あれは強烈な小説であった、と思う。少なくともページと視線との接点を基点として生活から日常性が接収されていると錯覚するほどには強烈で、その錯覚に焼かれたような焦燥感が私にこのような文をものさせることになった。皮肉にも、感想というタイトルで小説の形式をやろうという企みは、却って今日もまた平々凡々な日々のひとつであったという確信を得る結果に終わった。生々しく凄絶な虚構に対する防衛反応の一種かもしれない。タコやイカが吐く墨のごとき生理的抵抗。お目汚しともいう。
日本萌学会ジャーナルブログ「萌え人」にこれが書かれている以上は件の制約に従うのが道理だ。When in Rome, do as Romans do. まあ私もローマ人みたいなもんだけれど。エルフだし。そして冒頭にくるべきでないものを冒頭に置いてしまった時の対処法を私は知っている。
ここよりうえを、まえがきにしてしまえばいい。
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以上前書き
アロハ~、日本萌学会の手札事故です。
筒井康隆御大の「虚人たち」というやばい小説を読んだら脳からなんか前書きが出ちゃったな。
おれでも出るのであなたたちも読んで出すとよいとされています。
なんか出る
出た。
出しちゃったので、いうなれば今のおれは出し殻です。なんも出ないよ~ん
本文のほうが雑になってどうするんだよ→しらね~~~~~~
草
日本萌学会の手札事故でした。
次回予告
一緒に買った本は「残像に口紅を」です。やばいですね☆
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